北海道の自然の中で育った。
毎日泥だらけになり、怪我が絶えず、イタズラばかりしていたやんちゃなガキ
地元では少年野球、山を歩き、川で遊び、空を見上げる毎日
あの頃は当たり前だった景色が、大人になってから何度も自分を支えてくれることになるとは思ってもいなかった。
20歳で自動車整備士となり、職人の世界で機械と向き合う日々を数年、運転免許取消しとなる事件と共に退職、大企業の安定を捨てた。
その後、26歳でWebサイト運営会社に入り、毎日15〜18時間を超える仕事をひたすらこなす
数字が全ての世界で暴力や圧力も当たり前
出来なきゃ降格出来れば昇進
血を吐いたこともある
血尿も出た
現代では考えられない環境だったがただがむしゃらに戦い続けて
収入は右肩上がりだった。
それでも、心は満たされなかった。
数字は積み上がる。
けれど、何も残らない
そんな感覚だけが残っていた。
利尻富士の山頂で人生最高の星空
時間とともに、黒い空が東から少しずつ藍色へ、ぼんやりとオレンジ色へ変わっていく景色
支笏湖で幾度となく出会った、その日、その瞬間にしか存在しない風景。
自然は何も語らない。
だからこそ、多くのことを教えてくれる
社会での戦場で強く成長させてもらった
でも大事なことの多くは自然から学んだ。
ある出来事をきっかけに会社を離れ、飲食の世界へ飛び込む。
人を迎え、空間を整え、空気を作る
そこで改めて知ったのは、人の心はほんの少しの気遣いで大きく動くということだった。
私が大切にしていたのは、お客様に気付かれない気遣い。
君はどこから来たの?
こんなこと出来る人は中々いないよ。
その一言は、今でも仕事の原点になっている。
仕事が終われば、音楽と酒に囲まれたすすきのの夜。
笑い、語り、怒り、死んだように眠る
ただ熱いだけしか取り柄もなく、そんな時間もまた、人生を形づくる大切な景色だった。
やがて家族の年齢や、自分自身のこれからを考えるようになった頃、コロナ禍が訪れる。
街から人が消えた。
人と人との距離は遠くなり、社会全体が内側へ閉じていく。
便利さや効率が優先される一方で、人も社会も、本来あるべき循環を少しずつ失っているように感じた。
「このままでいいのだろうか。」
その問いだけが、自分の中に残った。
そんな頃、不思議なほど自然な流れで何の縁もない世界の何の縁もない北海道鍼灸専門学校の門を叩く。
今思えば不思議なくらい不安はなかった。
大きな期待があったわけでもない。
ただ、幼い頃から自然の中で感じてきたことと、「天人合一」という東洋思想が一本につながり、「この道なんだろう」という静かな確信だけがあった。
在学中、後に師匠となる小松武史先生と出会う。
約40年前、単身アメリカへ渡り、日本人として腕一本で道を切り拓いた鍼灸師。
欧米人に舐められてたまるか。
その覚悟を胸に臨床を積み重ね、やがてオリンピック陸上USAチームのトレーナーも務めるまでになったサムライ
先生から受け継いだ一番大きなものは、技術ではない。
覚悟
自分が信じたものを貫く覚悟。
本質を追い続ける覚悟。
孤独であっても、自分の信じる道を歩き続ける覚悟。
その姿勢は、今も私の中に生きている。
一方で、鍼灸業界を知るほど、多くの違和感も覚えた。
本来、人と向き合うための医療であるはずなのに、いつしか見せ方や流行、刺激の強さや技術論ばかりが語られ、治療を知らぬコンサルに洗脳される経営者
優先順位が違うんじゃないのか?
そう思う場面は業界の大半を締める現実で、現場に職人は皆無だった
だからこそ師匠が持つ職人のオーラに惹かれ、出来る事を出来る限りがむしゃらに練習した
試験用の勉強もせずにひたすら
血吐きながら仕事をしていたあの頃のお陰で、辛いことなど1mmもない
ワクワクと悔しさの繰り返しで技術を治療効果を求めていた。
LA式瞑想鍼灸は、藍月の治療である。
しかし、そのベースにあるものは、武史先生から受け取った技術であり覚悟であり、想いだ。
私が継承したいのは技術ではない。
人とどう向き合うのか。
何を信じるのか。
何のために鍼を持つのか。
その想いを、これから先も治療として患者さんに
技術として後輩たちに伝え続けていきたい。
鍼灸の可能性には日々驚かされる
行く道のゴールは宇宙の彼方で想像もつかない
恐らくこの命が終わる頃にもまだ見えていないだろう
お陰で飽きずに進み続けられる
宇宙も、自然も、生命も
すべては循環の中にある
心の、身体の、社会の、縁の、生命の循環を促すことが出来るのが職人としての鍼灸師であり
わたし個人としての役割なのではないかと
今はぼんやり思っています。
はり灸を身近に
藍月をお側に